Komedaのブログ

大学生だって声を出したい

恥を強いる世界は生きにくい

先日,ある方がSNS上で,「〇〇に対して無知なことを恥じるべき」というツイートをしており,そのツイートがバズっているのを観測した.

そこに私は強い違和感を覚えた.「恥は強制されるものなのか??」.この違和感の正体がなんなのか,少し考えてみたので,その思考過程を備忘録として残す.

「恥」とはなんなのか

まず,恥とはなんなのか.私はどのような時に恥を認識するのか.具体的なケースをいくつか考えてみた.それぞれのケースの共通点が,きっと恥の正体なのだ.

  1. 忘れ物をした際に,みんなの前でそれを指摘された時
  2. 大勢の前で歌う時
  3. 目を瞑った瞬間を撮られた時
  4. ギターの練習を一人でしていることを知られた時
  5. ダサい服を着て外を歩いてる時
  6. 箸の持ち方が汚いことを指摘された時
  7. 友達が目立つような動作をした時

次にこれらケースの恥を抽出してみる

  • だらしないことを誰かに知られると恥ずかしい
  • 注目を浴びると恥ずかしい
  • 見られたくないものを見られると恥ずかしい
  • 知られたくないものを知られると恥ずかしい
  • 普通でないと思われると恥ずかしい
  • 身内の恥は自分の恥

なるほど.なんとなーく,恥について分かってきた.

抽出した恥を大雑把にまとめると,

「認識されたくない自分の領域に意識を向けられると,恥を感じる」

と言えるのではないか.とりあえず,恥の正体はこうしておこう.

なぜ恥を強制させる世界は生きにくいと感じたのか

恥の正体が分かったところで,なぜ恥を強制されると生きにくいと感じるのか,考えてみる.

恥を強制されるとは,自分自身の客観性が矯正されること,ではないか.なぜなら,恥とは自分自身の情けない,普通ではない部分を見られると感じる.そして,恥を強制されるとは,これを恥ずかしいと思え!と命令される.個々それぞれの価値観に口を出すようなものだ.

今回観測したツイートでは,学問を知らないことを恥じろ,のような,かなり極端な恥を強制していた.

確かに,強制される価値観は存在すると思う.例えば,人殺しをやめろとか,暴力を振るうな,とか.ただ,「恥じろ」という言葉を用いて恥を強制することは,価値観の強制と同義だと思うので,安易にしない方がいいと思った.