恥を強いる世界は生きにくい
先日,ある方がSNS上で,「〇〇に対して無知なことを恥じるべき」というツイートをしており,そのツイートがバズっているのを観測した.
そこに私は強い違和感を覚えた.「恥は強制されるものなのか??」.この違和感の正体がなんなのか,少し考えてみたので,その思考過程を備忘録として残す.
「恥」とはなんなのか
まず,恥とはなんなのか.私はどのような時に恥を認識するのか.具体的なケースをいくつか考えてみた.それぞれのケースの共通点が,きっと恥の正体なのだ.
- 忘れ物をした際に,みんなの前でそれを指摘された時
- 大勢の前で歌う時
- 目を瞑った瞬間を撮られた時
- ギターの練習を一人でしていることを知られた時
- ダサい服を着て外を歩いてる時
- 箸の持ち方が汚いことを指摘された時
- 友達が目立つような動作をした時
次にこれらケースの恥を抽出してみる
- だらしないことを誰かに知られると恥ずかしい
- 注目を浴びると恥ずかしい
- 見られたくないものを見られると恥ずかしい
- 知られたくないものを知られると恥ずかしい
- 普通でないと思われると恥ずかしい
- 身内の恥は自分の恥
なるほど.なんとなーく,恥について分かってきた.
抽出した恥を大雑把にまとめると,
「認識されたくない自分の領域に意識を向けられると,恥を感じる」
と言えるのではないか.とりあえず,恥の正体はこうしておこう.
なぜ恥を強制させる世界は生きにくいと感じたのか
恥の正体が分かったところで,なぜ恥を強制されると生きにくいと感じるのか,考えてみる.
恥を強制されるとは,自分自身の客観性が矯正されること,ではないか.なぜなら,恥とは自分自身の情けない,普通ではない部分を見られると感じる.そして,恥を強制されるとは,これを恥ずかしいと思え!と命令される.個々それぞれの価値観に口を出すようなものだ.
今回観測したツイートでは,学問を知らないことを恥じろ,のような,かなり極端な恥を強制していた.
確かに,強制される価値観は存在すると思う.例えば,人殺しをやめろとか,暴力を振るうな,とか.ただ,「恥じろ」という言葉を用いて恥を強制することは,価値観の強制と同義だと思うので,安易にしない方がいいと思った.